<巻頭言> 日本色彩研究所の歩みと今後のビジョン
COLOR No.175掲載
一般財団法人日本色彩研究所 理事長 赤木 重文
はじめに
私が弊所の代表を引き受けてから、今年の6月で1年が経過しました。この任に就いた時期は、日本で新型コロナウィルスの感染が報じられて、既に1年半が過ぎた頃でした。コロナ禍前の業務の進め方と比較すると日々が異例づくめで、多くの企業や行政がそうであったように、非常事態に対応した業務体制を余儀なくされました。就業体制の対応は所内の状況に応じて着々と進みましたが、もっぱらの関心事は、このパンデミックがもたらした社会的ニーズの変化です。
創立以来、色彩研究所が果たしてきた社会的な役割は、色彩に関する産業的また教育的な課題に対してソリューションを提供することです。
創立当初の活動
画家和田三造が創設した日本標準色協会が弊所の前身ですが、協会の名称が当初の目的を表しています。当時の産業界における国際競争力を強化する上で、製造手法の標準化が必要であることを、和田はヨーロッパへの留学によって実感し、そしてそれは産業界のみならず教育界へと敷衍していきます。欧米における色彩標準化の実態に範を得た創設当初の色彩研究所の任務は、官・学・民の有志で色彩の標準を確立し、産業的また教育的な運用を推し進めることであり、いわばトップダウン方式で色彩における業務改革指針を発信しました。
この色彩標準化の具体的目標は、カラーシステムの開発や標準色票の製作、それに関係した測色学の確立、そしてその運用法の啓蒙であり、その活動は1945年に財団法人に改組されてからも中心的な業務となり、今日も継続しています。
標準色協会創設から財団法人への改組を跨いで約30年余りの期間は、JIS Z 8721(三属性による色の表示法)の制定(1959)とJIS標準色票製作着手(1960完成 日本規格協会発行)まで、いくつかの標準色候補の色票集が製作され消えていきましたが、修正マンセル色票はJIS標準色票として版を重ね現在9版となります。JIS標準色票としてマンセルシステムが採用されてからほどなく、デザイン用カラーシステムPCCS(日本色研配色体系)が開発されますが、それ以降に製作された色票集の用途は大きく二分されます。一つは色の記録・伝達・管理用であり、もう一つはデザイン検討用です。これは受託業務にも通じる傾向で、色彩研究所の二つの部署の業務に相当します。
カラーコンサルティング業務の時代を迎えて
標準色を世に送り出した色彩啓蒙時代を経て、1980年代になると、様々な色彩案件を抱えた企業や行政から委託研究やコンサルティング業務を受注していきます。標準色の検討にあたって色見本製作と測色を担当した第1研究部(現、研究第2部)は、色票製作のみならず、色彩管理に関する運用技術の開発や企業に対する実践指導が主要な業務となり、配色調和や色彩設計のためのデータ収集分析の視点からカラーシステムを検討していたスタッフは、第2研究部(現、研究第1部)で環境色調査、色彩好悪調査、色彩市場調査、各種色彩設計業務などを主要な業務としていきます。
近年求められるカラーソリューションに対応する業務体制
私たちの事業の到達点は、産業界や教育界への助言を通して、色彩文化の進展や快適環境形成を推進することにあります。この目的を達成するために、これまではニーズの内容によって二つの部署が別々に対応していきました。その研究成果は、個々の要素研究の結果として蓄積されていますが、最近求められるソリューションは分野の枠を超えてプロジェクトを組んで対応する案件が増えています。私たちの色へのアプローチはそれぞれの専門性を持ちながら一つの目的を持つこと、個々の専門性が集結することによる目的の達成という視野や見識を持つことが重要と考えます。最近、業務遂行のキーワードとして目にする機会の増えてきた「パーパス」の色彩業務における事案でしょう。
製造物などの色彩評価は表面性状の物性値との相互作用が大きく、製造過程のパラメータとも大きく関係してくるので、「物性値データ」「色値データ」「印象評価データ」さらに「デザイン設計のポイント」などを、部署を超えて総合的に見ていくことは、より良いものを創造していく製造業イノベーションへの入り口といってもよいでしょう。
コロナ禍における業務受託状況
コロナ禍で最も影響を受けたのが企業からのソリューションの依頼や問合せの数が激減したことです。それらの受託業務の収入減を補ったのが教育関連事業です。オンラインやオンデマンド講座・セミナーに関連した教育ツールの開発や、学習の幅を広げたいという教育関連機関のニーズに対応したテーマ開発などのボリュームが大きく膨らんできました。
今後のニーズに対する事業展開と課題
コロナ禍における学習形態の変化は、コロナ禍後には教育システムの変革をもたらすという予測もあります。わたしたちは色彩教育を通してこのニーズに応え、教育変革のモデルを構築していかなければなりません。
一方、コロナ禍で受託が激減した産業界に目を向けると、中断していた案件に関する問い合わせも増え始め、徐々に再開の兆しが見えてきました。内容は新型コロナウィルスの感染が始まる前から社会的な課題としてあげられていた幾つかのテーマに関するもので、これまでコロナ禍の中でも多くの企業や自治体が取り組みについて発信しています。そのテーマがDX(デジタル・トランスフォーメーション)とSDGsになります。今やそのことばに新しい響きを感じさせるほど直近のテーマというわけではありませんが、業務改革、ウェルビーング、地球環境、イノベーション、メタバース、…などのキーワードと同時に使用されることの多い二つのテーマは、今後、色彩研究所の目的を遂行するにあたっては、粘り強く取り組んでいきながら、着実に成果を上げていく必要のある課題が含まれています。
この二つのテーマを個別に取り上げて、弊所の今後の課題と関連付けて考察してみると、DXについては、デジタル活用による業務の効率化という業務改革の側面のみならず、デジタル環境の拡張に伴い派生してくる新たな色彩表現の標準化という問題が出てくるように思われます。私たちはこれまで周辺環境や製品・素材を通して色の標準化を進めてきましたが、今後リアルな社会とバーチャルな世界を、色で橋渡ししていく役割が生まれることは必然と考えています。
またSDGsでは、内容によってはかなり長期的な視点に立った目標を設定しています。色は一般的にコミュニケーションツールといわれているので、その活用事例は多くみられます。しかしながら、視覚以外の感覚による色彩コミュニケーション、例えば視覚障害者にとっての色彩理解については、その試みはそれほど多くはありません。わたしたちは社会的な存在です。様々な感覚特性を持つ者が集い、一つのテーマについて様々な方法で感受し、発信し、共有することで、一人では感受できない多角的で鋭敏な感覚がコミュニティーのなかで形成されることが期待できます。これまで視覚を前提にして、色彩工学や心理学、また芸術・デザインの領域から色彩の問題に取り組んできましたが、これまでとは少し領域の異なるコミュニケーションの応用研究によってこの目標に取り組んでいくことを考えています。このように感覚の多様性を前提にした社会の構築はすべての人を成長させるように思います。そのような視点から色に取り組むことは今後ますます重要になり、それが当たり前になる社会がくることを願っての長期的計画です。
弊所はあと数年で創立百周年を迎えます。様々な状況下において歴史的転換期を予感させる今日が、色彩研究所の節目に当たるという事実は、私たちが新たな取り組みを開始するきっかけとして強いモチベーションを生む要因となっています。気持ちも新たにこれらの課題に向かってチャレンジしていきたいと考えています。
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